人生が輝きだす、ある雨の日のピアノ

 今日は、ある一本の映画の話をしようと思う。

 もうずいぶん前のことだ。僕がまだ若くて、今よりもずっと迷子だった頃の話。 当時、僕はなんとなく失敗続きで、将来のことなんて霧の中にある電柱みたいにぼんやりとしか見えていなかった。そんなある日、ふらりと立ち寄ったレンタルビデオ屋で、僕は一枚のパッケージを手に取ったんだ。

 タイトルは『シャイン』。 空に向かって、まるで空気を抱きしめるみたいに両手を広げている男性の写真が印象的だった。この映画は、実在の天才ピアニスト、デイヴィッド・ヘルフゴットの半生を描いた物語だ。 今日はこの映画を通して、少しだけ「君」のこれからについて考えてみたい。

父という名の、愛と重圧

 主人公のデイヴィッドは、オーストラリアの貧しい家庭に生まれる。彼にはピアノの才能があった。それはもう、溢れ出る水みたいに自然な才能だった。 でも、彼の父親であるピーターは、少しばかり「熱心すぎる」人だったんだ。

 ピーターは厳格で、デイヴィッドに英才教育を施す。「この世は弱肉強食だ、生き残るには強くなるしかない」と、彼は幼い息子に教え込む。今の言葉で言えば、いわゆる「毒親」というカテゴリに入ってしまうのかもしれない。でも、物事はそう単純じゃない。ピーター自身も、戦争やホロコーストという過酷な体験をしていて、心に深い傷を負っていたんだ。 彼の厳しさは、歪んではいたけれど、彼なりの「息子を守りたい」という愛の裏返しだったのかもしれない。

 君もひょっとしたら、親や先生からの期待を、重たいリュックサックみたいに背負いすぎているかもしれないね。 期待というのは厄介なもので、ガソリンにもなれば、重荷にもなる。 デイヴィッドの場合、それはあまりにも重すぎた。彼はアメリカ留学のチャンスを父に潰され、それでもピアノを弾くために、勘当同然で家を飛び出してロンドンへ渡るんだ。

空白の10年と、奪われた音

 ロンドンでのデイヴィッドは、まるで何かに取り憑かれたようにピアノに向かう。 彼が挑んだのは、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」。世界で一番演奏が難しいと言われている怪物のような曲だ。彼はコンクールでこの難曲を見事に弾ききる。会場は拍手の嵐だ。でも、その直後、張り詰めていた糸がプツンと切れるように、彼はステージで倒れ込んでしまう。

 そこから、彼の人生は暗転する。統合失調感情障害を患い、精神病院での生活が始まるんだ。一度は家に戻ろうとするけれど、父は彼を受け入れない。ピアノを弾くことも禁じられてしまう。

 考えてみてほしい。ピアノのために生きてきた人間が、ピアノを取り上げられる苦しみを。それはまるで、呼吸をするなと言われているようなものだ。 彼は10年以上もの間、社会から隔絶された生活を送ることになる。君が生まれてから今までの時間と同じくらいの長さが、ただ空白として過ぎ去っていく。

 僕がレンタルビデオ屋でこの映画を手に取ったとき、自分も何者かになろうとして、なれずに焦っていた。だから、この「空白の時間」の重みが、妙にリアルに感じられたのを覚えている。

雨宿りのバーで、奇跡は起きる

 でも、人生というのは不思議なもので、どこでどう転がるかわからない。 ある雨の夜、彼はふらりと一軒のバーに迷い込む。そこで彼は、店のピアノの前に座るんだ。タバコをくわえたまま、ふざけたような格好で。

 店の人たちは最初は彼を追い出そうとする。でも、彼が鍵盤に指を走らせた瞬間、空気は一変する。 彼が弾いたのは「熊蜂の飛行」という曲だ。 その演奏は、かつてコンクールで優勝を目指していたときのような、完璧で張り詰めたものではなかったかもしれない。でも、そこには圧倒的な「喜び」があった。 彼はもう、父のためでも、審査員のためでもなく、ただそこにいる人たちを楽しませるために、そして自分自身のためにピアノを弾いていたんだ。その瞬間、彼の人生は再び輝き出した。映画のタイトルのように、「シャイン」したんだ。

誰かが誰かを支えている

 この映画のもう一つの素敵なところは、デイヴィッドが一人で立ち直ったわけではないという点だ。 彼はその後、ギリアンという占星術師の女性と出会う。彼女は、傷ついた彼の心をまるごと受け入れ、支え続けた。彼女の存在があったからこそ、彼はコンサートピアニストとして復活を遂げることができたんだ。

 映画の後日談として、実際の家族からは「事実は少し違う」という声もあがっているらしい。映画はあくまで映画であり、現実はもっと複雑なものだろう。それでも、僕はこの映画が描いた「再生」の物語に、嘘はないと思っている。

 人は一人では生きていけない。 ありきたりな言葉に聞こえるかもしれないけれど、本当にそうなのだ。 僕たちは誰かに支えられ、時には誰かに手を差し伸べながら、どうにかこうにかバランスを取って生きている。

雨上がりの空へ

 あの頃の僕は、この映画を観終わった後、少しだけ肩の荷が下りたような気がした。失敗してもいい。回り道をしてもいい。10年立ち止まっていたって、また歩き出せる。そんなふうに背中を叩かれたような気がしたんだ。

 もちろん、映画を観たからといって、僕の人生がいきなり劇的に好転したわけじゃない。その後も相変わらず失敗は多かったし、嫌なこともたくさんあった。でも、完全に立ち止まってしまっていたら、今の自分はいなかったと思う。ちょっとだけ顔を上げて、雨上がりの水たまりを避けるようにして、一歩ずつ前に進んできた結果が、今の「僕」だ。

 君の未来は、まだ誰にもわからない。もしかしたら、デイヴィッドのように大きな壁にぶつかることもあるかもしれない。でも、もし君が何かに躓いて、暗闇の中にいると感じることがあったら、思い出してほしい。雨宿りのつもりで入った場所で、思いがけない自分の「音」が見つかることもあるってことを。

 空に向かって両手を広げているデイヴィッドのように、君の人生もいつか、あるいはすでに、どこかで輝いているはずだから。

 さて、少し長くなってしまった。もし気が向いたら、いつかこの映画を観てみるといい。君にとっての「雨の日のバー」が見つかるヒントになるかもしれないよ。

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