いじめ動画と、僕たちがこれから向かう場所について

正直に言って、このテーマをキーボードに乗せるべきか、カップに残ったコーヒーを眺めながら躊躇していた。窓の向こうでまたたく夜景はこれほど穏やかなのに、インターネットの海は、今この瞬間も荒れ模様らしい。
ここ最近、いじめの動画が拡散されているというニュースをよく目にする。君もスマートフォンの画面越しに、あるいは教室の噂話として、それを耳にしたことがあるかもしれない。
世の中があまりに騒がしいから、それに触れないでおくというのは、なんだか部屋の中に象がいるのに気づかないふりをして紅茶を飲んでいるような、奇妙な不自然さを感じる。だから、少しだけ、僕の考えを話してみたいと思う。もちろん、これは一つの考え方にすぎない。君には君の考えがあるだろうし、それでいいんだ。
画面の中の「正義」と「暴力」
最近の傾向として、いじめや暴行の瞬間を捉えた動画がSNSで拡散され、そこから加害者の個人情報が特定され、晒されるという一連の流れがあるようだ。中には、中学生が小学生を海に突き落とすような、胸が痛くなるほど深刻な映像もあると聞く。これに対して、世の中の意見は真っ二つに割れている。まるで、よく熟れたスイカを包丁で叩き割ったときのようにね。
ある人たちはこう言う。「学校や教育委員会は動いてくれない。だから、ネットで晒して世間に訴えるしか、地獄を終わらせる方法がないんだ」と。実際、警察や弁護士に相談していることをSNSで発信したら、それまで鈍重だった学校の対応が急に変わった、なんていう話もある。
一方で、別の意見もある。「ネットでの晒し行為は、法治国家の否定だ。それに、一度ネットに広がった動画はデジタルタトゥーとして一生消えない。被害者が忘れたいと思っても、半永久的に苦しむことになる」という心配だ。
どちらの言い分にも、理屈はある。正規のルートが機能不全を起こしているから、裏口から突破しようとする人が現れる。でも、その裏口を開けた途端、制御不能な風が吹き込んで、誰かを吹き飛ばしてしまうかもしれない。それは「正義」という名前がついた、また別の暴力になり得る危うさを孕んでいる。
観客席に座る人たち
もう一つ、僕がどうしても気になってしまうことがある。それは、動画の中に映っている、あるいはその動画を撮影している「周りの人たち」のことだ。
いじめの現場には、加害者と被害者だけがいるわけじゃない。そこには、ただ輪になって眺めている人たちがいる。スマートフォンを構えて、まるで映画のワンシーンでも撮るみたいに。
彼らは何を考えているんだろう。「自分じゃなくてよかった」と思っているのかもしれないし、「関わると面倒だ」と思っているのかもしれない。あるいは、格闘技イベントのようなエンターテインメントの延長として、暴力を見ているのかもしれない。
でも、厳しいことを言うようだけど、「何もしない」というのは、加害者にとっては一番の応援歌になるんだ。いじめというのは、一人の加害者と一人の被害者で成立しているように見えて、実はそれを取り囲む無数の「観客」によって支えられていることが多い。
文部科学省のデータによると、いじめの認知件数は過去最多を更新していて、その数は年間68万件を超えているそうだ。この数字の向こう側には、それだけの数のため息と、眠れない夜がある。そして、それに気づきながらも、ただ通り過ぎていった無数の人たちがいるはずだ。
大人になるということ
さて、ここからは少し、君自身の話をしよう。
君が今、中学生や高校生だとしたら、あと数年もすれば「成人」と呼ばれる年齢になる。それは、ある日突然、空から降ってくる称号のようなものじゃない。静かに、でも確実にやってくる変化だ。
これまでは、君は親御さんや学校から「守られる」立場だった。雨が降れば誰かが傘を差し出してくれたし、道に迷えば誰かが地図を広げてくれた。でも、これからは少しずつ変わっていく。君は、誰かを「助ける」立場に回っていくことになるんだ。
すぐにできなくてもいい。スーパーマンみたいにマントを羽織って空を飛ぶ必要はないからね。ただ、心のどこかで「そうありたい」と願うことが大切なんだと思う。
はっきり言ってしまえば、いじめなんてものは、本当にくだらないことだ。人生の貴重な時間を費やす価値なんてこれっぽっちもない。だけど、悲しいことに、大人の社会に出てもいじめはなくならない。形を変え、言葉を変え、それはどこにでも存在する。だからこそ、考えてみてほしい。
もし、君の目の前で誰かが理不尽な目に遭っていたら、君はどうするだろうか。スマートフォンを取り出して動画を撮るだろうか。それとも、別の選択肢を探すだろうか。
動画を拡散して、見知らぬ誰かに制裁を委ねることは、一見すると胸がすくような解決策に見えるかもしれない。でも、それは本当に君が望む「解決」なんだろうか。
人間というのは、考えて、悩んで、少しずつ成長できる生き物だ。 今、君たちにできることはなんだろう。 加害者をネットで叩くことでも、暴露アカウントの是非を論じることでもない気がする。
自分の周りで起きていることに目を凝らし、もし何かがおかしいと感じたら、勇気を持って信頼できる大人に相談するとか、あるいは「それは違うんじゃない?」と小さな声で言ってみるとか。そういう地味で、目立たない行動の中にこそ、本当の意味での強さが隠れているんじゃないだろうか。
社会というのは巨大な船のようなものだ。急に舵を切ることはできないけれど、一人ひとりが少しずつ重心を移動させれば、やがて進む方向は変わっていく。
君がこれから向かう大人の世界が、今より少しでもマシな場所であるように、僕も僕なりに考えていきたいと思っている。 君も、どうか自分を大切にして、そして周りの人たちのことも、少しだけでいいから想像してみてほしい。

