懐かしいゲームと、君たちの現在地

 僕がまだ君たちくらいの年齢だった頃、あるいはもう少し小さかった頃、世界は今よりも少しだけ単純で、そして少しだけ不便だった。 今でこそ、僕はコントローラーを握る時間をほとんど持たなくなってしまったけれど、かつては本当にゲームに夢中だったんだ。 

 小学生の頃はファミコンやスーパーファミコンに、高校生になる頃にはプレイステーションやセガサターンといった、いわゆる次世代機と呼ばれるマシンに没頭していた世代だ。

 今日は、そんな古いゲームの話を枕に、君たちのこれからについて少しばかり考えてみたいと思う。

ゲーム機が繋いだ、アナログな友情

 僕が子供だった頃、ゲームというのは基本的に一人で遊ぶものでありながら、同時に強烈なコミュニケーションツールでもあった。 

 当然だけれど、子供の財布事情というのはいつの時代も厳しい。好きなゲームソフトを次から次へと買い替えるなんて芸当は不可能だ。だから、僕たちは自然と戦略的な同盟関係を結ぶことになる。 「お前はこのアクションゲームを買ってくれ。俺はこのRPGを買うから。クリアしたら貸し借りしようぜ」といった具合にね。

 それに、当時はインターネットなんて便利なものは影も形もなかったから、対戦ゲームで遊ぼうと思ったら、物理的に友達の家に乗り込むしかなかった。友達の家のリビングにお邪魔して、時にはその家のお母さんが切ってくれたリンゴをつまみながら、あるいは友達の弟や妹とも交流しながら、熱狂的な時間を過ごしたものだ。 

 1980年代のファミコンブームの頃、ゲームは家の中で遊ぶ機械でありながら、実際の遊び場は友達の家だったりしたんだ。 

 今にして思えば、僕がゲームを好きになったきっかけの半分くらいは、ゲームそのものの面白さよりも、それを通じて友達ができたという体験にあったのかもしれない。ゲームは単なる個人の趣味を超えて、「みんなの話題」を作り出す装置だったんだね。

噂話という名の、不確かな情熱

 情報の伝わり方も、今とはずいぶん違っていた。今はスマホを開けば、攻略サイトや動画で、ボスの倒し方から隠しアイテムの場所まで一瞬でわかるだろう? でも、僕らの時代はそうはいかなかった。攻略本というありがたい書物は存在したけれど、本屋に行ってもビニール紐で固く縛られていて、立ち読みなんて許されなかったんだ。 だから僕たちは、友達同士の情報交換に頼るしかなかった。

 「週刊少年ジャンプ」の片隅に載っているドラクエの攻略情報に胸を躍らせたり、どこからともなく流れてくる怪しげな噂を検証したりした。例えば、「何ターン以内にエスタークを倒せば仲間になるらしい」とかね。

 もちろん、その情報の多くは不確かで、間違いも多かった。でも、正解へ一直線に進む今のスタイルとは違って、その回り道や試行錯誤そのものが、遊びの一部だったとも言える。 確かめるまでに時間がかかるからこそ、その過程がイベントになり、熱狂が長く続いたのかもしれないね。

ドット絵の隙間と、僕の想像力

 さて、そんな時代を過ごしてきた僕だけれど、大人になった今でも、たまにゲームを遊びたくなることがある。不思議なことに、手を伸ばすのは最新の超大作ではなく、昔遊んだようなレトロゲームばかりなんだ。ニンテンドースイッチのような最新のハードを持っていても、ダウンロードするのは懐かしいドット絵のゲームだったりする。

 もちろん、今の最新ゲームの技術は素晴らしいと思う。僕が子供の頃、ファミコンからスーパーファミコン、そしてプレイステーションへと進化していく過程で、グラフィックや音楽が劇的にリッチになっていくのを目の当たりにしてきた。 

 当時の僕らにとっては、カクカクしたポリゴンでさえ「これ、実写じゃないか?」と思い込んでしまうほどリアルに見えたものだ。でも、今の「神ゲー」と呼ばれるような、例えば『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』のような自由度の高いオープンワールドゲームをやってみても、なぜか30分くらいで疲れてしまって、そっと電源を切ってしまうんだよね。

 なぜ僕は、あえて古いゲームを選ぶんだろう。心理学には「レミニセンス・バンプ」という言葉があって、人は10代から30代前半の記憶を特に鮮明に覚えているらしい。特にゲームのような感情に深く関わる体験は記憶に残りやすくて、10歳前後に遊んだゲーム機を再び手に取りたくなる傾向があるそうだ。 どうやら僕のこの行動も、学術的に説明がつく現象らしい。

 でも、それだけじゃない気もする。 レトロゲームの魅力の一つは、その「シンプルさ」と「想像の余地」にあるんじゃないかな。 当時のゲームは容量の制限があったから、グラフィックも音楽も、今のものに比べれば簡素だ。でも、ドット絵の荒い描写だからこそ、プレイヤーは画面に映らない部分を自分の頭の中で補完して楽しんでいた。単純なルールの中に、自分なりの世界を広げる隙間があったんだね。

 それに、大人になった僕にとっては、クリアまでの時間が短くて、手軽に遊べるというのも大きな魅力だ。

君たちにとっての「レトロ」とは

 ここで視点を君たちに向けてみよう。Z世代と呼ばれる君たちにとって、僕が懐かしむようなレトロゲームは、どう映っているんだろう? 面白いことに、君たちの世代では、僕らが懐かしいと感じるものを「新しい」とか「新鮮」だと感じてくれているようだね。 

 韓国ではこれを「ニュートロ(ニュー+レトロ)」と呼んだりするらしいけれど、古いものを経験したことのない世代が、それを新しいものとして楽しむ現象が起きている。 例えば、使い捨てカメラやレコード、そしてレトロなデザインの食器なんかがそうだ。 君たちが僕の思い出のゲームをプレイして、「エモい」とか「カワイイ」と感じてくれているなら、それはなんだか不思議で、そして少し嬉しいことだ。

 君たちが今、熱中しているその最新のゲームも、10年、20年経てば、間違いなく「レトロゲーム」と呼ばれるようになる。 

 その時、君たちはどんな風にそのゲームを振り返るんだろうか。今の僕がファミコンのドット絵に安心感を覚えるように、君たちも高精細な3Dグラフィックや、広大なオープンワールドの中に、帰るべき故郷のような懐かしさを見出すのかもしれない。

 未来のことなんて誰にもわからないけれど、一つだけ確かなことがある。どんなに技術が進化しても、あるいは時代が変わっても、かつて夢中になった体験や、そこで感じたワクワクする気持ちは、案外色褪せないものだということだ。それは「思い出補正」なんて言葉で片付けられるものじゃなくて、君という人間を形作った大切な要素の一つとして、ずっと心の中に残り続ける。

 だから、今君が好きなものを、大切にしてほしい。たとえそれが、周りの大人から見ればただの暇つぶしに見えたとしても、そこで得た友人との会話や、試行錯誤した経験は、決して無駄にはならないはずだ。 かつて僕が、ゲームを通じて友達を作ったり、攻略本の噂話に一喜一憂したりした経験が、今の僕の一部になっているようにね。

 さて、そろそろ話を締めようか。もし君が、古いゲームに少しでも興味を持ってくれたなら、一度遊んでみてほしい。そこには、最新の技術では描けない、不便だけれど愛おしい世界が広がっているかもしれないよ。そもそも、それが君に響くかどうかは、僕にはよくわからないけれど。

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