僕と君と、1000万人の隣人たち

日本の人口はおよそ1億2000万人だけれど、その中にどれくらいの「障害」と呼ばれるものを持った人がいるか、君は知っているだろうか。
ある調査によると、その数は1000万人を超えているらしい。つまり、ざっと計算して国民の10人に1人、あるいはそれ以上の割合で、何かしらの生きづらさを抱えている人がいるということになる。10人に1人といえば、君のクラスにも数人はいるかもしれないし、満員電車に乗れば車両の中に何人もいる計算だ。
幸いなことに、今のところ僕は、自分が知る限りにおいては障害を持っていない。朝起きてコーヒーを淹れ、階段を降りて、駅まで歩く。そういった日常の動作において、特に何かの壁にぶつかったことはないし、健康的に暮らせている。でも、それはたまたま僕が「マジョリティ(多数派)」側の身体機能を持っているというだけの話で、永続的な保証書がついているわけではないんだ。
そんな中で、2024年の4月から、とある法律が変わったことを君は知っているかな。「改正障害者差別解消法」という、少し堅苦しい名前の法律だ。そこでキーワードになっているのが「合理的配慮」という言葉なんだけれど、これがなかなか興味深い概念なんだ。


魔法の杖ではなく、対話のテーブル
「合理的配慮」と聞くと、なんだかとても難しそうな、あるいはすべての要求を呑まなければならない義務のように聞こえるかもしれない。でも、この法律が求めているのは、魔法の杖ですべてを一瞬にして解決することではないんだ。
簡単に言えば、障害のある人から「ここにバリアがあって困っている」という意思表示があったときに、負担が重すぎない範囲で、そのバリアを取り除く手助けをしましょう、ということだ。これが義務化されたのは、主にお店や会社などの事業者に対してなんだけれど、考え方そのものは僕たちの日常にも通じるものがある。
当然のことながら、障害の種類や程度は人それぞれ違う。だから、求められたことすべてに100パーセント対応するのは、物理的にもコスト的にも無理な場合がある。それを無理やりやろうとすると、今度は助ける側がオーバーヒートしてしまうよね。だからこそ「合理的」という言葉がついている。無理のない範囲で、でも無視はせずに、どうすればいいかを一緒に考えよう、というわけだ。
たとえば、こんなシーンを想像してみてほしい。
車椅子を使っている人が飲食店に入ろうとしたけれど、備え付けの椅子が邪魔でテーブルにつけない。そんなとき、「車椅子の方は入店できません」と断るのではなく、備え付けの椅子を片付けてスペースを作る。あるいは、耳の聞こえにくい人が筆談をお願いしたいと言ったけれど、視力が弱くて細いペンでは文字が見えない。そんなときは、太いペンを使って大きな文字で書いてみる。
これらは国の資料に載っている例なんだけれど、どうだろう。どれも特別なスキルや莫大な予算が必要なことじゃない。ちょっとした想像力と、「どうすればうまくいくだろう?」という対話があれば解決できることばかりだ。法律というと身構えてしまうけれど、要するに「建設的対話」を始めようという招待状みたいなものだと僕は解釈している。


「かわいそう」というフィルターを外してみる
法律の話はこれくらいにして、もう少し心の話をしよう。君は障害を持っている人を見ると、反射的に「かわいそうだな」と思ってしまうことはないだろうか。正直に言えば、僕も昔はそうだったかもしれない。でも、もしその人が、まったくの他人ではなくて、君の親しい友人だったり、家族だったりしたらどうだろう。
障害を持っていることは、本人のせいなのかな。もちろん違うよね。
最近、たまたま見かけた動画で、とても印象的な女の子がいた。車椅子JKのひよりさんという、SNSで発信活動をしている高校生だ。彼女は「遠位型遺伝性運動ニューロパチー」の一種とおぼしき進行性の難病を抱えていて、筋肉が少しずつ低下していく病気と向き合っている。
彼女が動画の中で訴えていたことは、とてもシンプルで、かつ鋭いものだった。それは「自分をかわいそうという目で見ないでほしい」ということだ。
彼女は言う。「私はかわいそうじゃない」と。車椅子に乗っているだけで、勝手に不幸だと決めつけられることに、彼女は強い違和感を抱いている。彼女がSNSで発信したり、モデルに挑戦したりするのは、障害者という大きなカテゴリではなく、一人の「個人」として自分を見てほしいからなんだ。そして、自分が発信することで偏見を変え、後に続く他の障害者たちが傷つかない社会を作りたいと考えている。
「障害者はこう考えているはずだ」とひとくくりにするのではなく、「その人がどう考えているか」を知ってほしい。彼女の言葉は、僕たちが無意識にかけている「かわいそう」というフィルターを、パリンと割ってくれるような響きがある。
じゃあ、もう少し君たちに近い環境、たとえば学校の教室で考えてみようか。もしクラスメートに障害を持っている人がいたら、君ならどう接するだろう。
さっきのひよりさんの話にもあったように、まずは「障害者」という特別な枠組みではなく、ただのクラスメートの一人として接するのがいいんじゃないかな。過剰に気を使う必要なんてない。君が好きなスマホゲームの話や、流行りのアイドルの話題、昨日のテレビの話なんかを、普通に話しかければいい。相手だって同じ年頃の学生なんだから、楽しい話題に興味があるのは当たり前のことだ。
それから、障害があるからといって、何もできないわけじゃない。一方的に「これは無理だろう」と決めつけるのは、あまりフェアじゃないよね。もちろん、何か手助けが必要な場面はあるだろう。でも、良かれと思って勝手に車椅子を押したり、急に手助けをしたりするのは、時として相手を驚かせたり、不快にさせたりすることもある。
一番大切なのは、「何か手伝うことはある?」と軽く声をかけることだ。
「手伝おうか?」と聞いて、「ありがとう、お願い」と言われたら手伝えばいいし、「大丈夫、自分でやるよ」と言われたら「わかった」と引き下がればいい。それだけのシンプルな話なんだ。これを大人は難しく「建設的対話」なんて呼ぶけれど、要は友達同士の普通のコミュニケーションだよね。
目が見えない友達には、「あっち」と言う代わりに「右に2メートル」と具体的に伝えたり、発達障害の傾向がある友達には、曖昧な言葉よりも「教科書を机に入れて」とはっきり伝えたりする工夫は必要かもしれない。でもそれは、相手の性格に合わせて話し方を変えるのと、本質的には変わらない。
結局のところ、何を困っていて、どうしてほしいのか。それは話し合ってみないとわからない。お互いが納得できる解決策を見つけていくプロセスそのものが、友人関係を深めるということなのかもしれない。

僕たちもいつか、階段を登れなくなる
最後に、少しだけ未来の話をしよう。
今は健康な僕も、そして若くてエネルギーに溢れている君も、時間は平等に流れていく。歳を重ねれば、目が見えにくくなり、耳が遠くなり、足腰が弱くなっていく。それは誰にも避けられない、自然なことだ。つまり、僕たちはみんな、いずれ何らかの「不自由」を抱える予備軍なんだといえる。あるいは、明日事故に遭って、急に車椅子生活になる可能性だってゼロじゃない。
そう考えたとき、障害を持っている人が困っている社会のバリアは、未来の僕たちが困るバリアでもあるんだ。街中の段差をなくしたり、分かりやすい案内板を作ったりすることは、今の彼らのためであると同時に、未来の僕たち自身のためでもある。
駅のエレベーターや、広めの改札口が、誰のためにあるのか。それは「特別な誰か」のためじゃなく、多様な「僕たちみんな」のためなんだ。
社会には「障害の社会モデル」という考え方がある。これは、障害というのはその人の体にあるのではなくて、その人が社会参加するのを阻んでいる「社会の側の壁(バリア)」にある、という考え方だ。階段しかない建物があれば、車椅子の人には「移動できない」という障害が生まれるけれど、そこにエレベーターがあれば障害はなくなる。つまり、僕たちが社会の仕組みを少し変えるだけで、障害は消すことができるかもしれないんだ。
君がもし、街や学校で困っている人を見かけたら、ほんの少し想像力を働かせてみてほしい。そして、気が向いたらでいいから、「何か手伝いましょうか」と声をかけてみてほしい。
その小さな一言が、分厚い壁を少しずつ溶かして、僕たちがこれから生きていく未来を、ほんの少しだけ生きやすい場所に変えていくはずだから。


まとめ:合理的配慮と心のバリアフリー


